Shooting Dogs
今日授業で”Shooting Dogs”を見た。
日本語では「ルワンダの涙」
「ホテルルワンダ」「シンドラーのリスト」これまで見てきたracismの映画はどれも相当にむごたらしいものだったが、その反照としての人間の美しさ、人種を超えた共感覚の素晴らしさが説かれているように感じた。
僕はいつかの記事で、「自分には共感覚がないのでは?」と書いた。それは今考えると、二つの作品にみられる、悪く言えば映画っぽいところに反抗する気持ちが、そういった気持ちを抑えつけていたゆえだったのかもしれない。
この映画ではそんな弁解は許されない。暴力的にそれを引きづり出された。
それくらいこの映画は凄惨な内容だった。
「ホテルルワンダ」を見ていた僕は、明らかに終わりには救いがあるとたかを括っていた。映画ってそういうもんでしょ。という高飛車な態度で映画を見ていた。
だから、ほかの生徒よりも衝撃が強かったかもしれない。
終わった後しばらく動悸が止まらなかった。
何を考えればいいのかわからなくなった。
モードとか、上っ面の部分で済むものではなかった。
僕の存在の核にめり込んでくる、そういう”うねり”であった。
感想を書かなくてはならない授業で、感想をかけなかった。
そんな午後2時半
今では、だいぶ落ち着いて、気持ちの整理ができた。
だから、あの時かけなかった感想を今書こうと思う。
さっきも言ったが、僕は前に「ホテルルワンダ」をみた。
だから、「ルワンダの涙」と同時にこちらではこういうことが起きていたな。と思い出しながら見ていた。
そして、後でその二つの作品を比べながら考えてみると、壮大な対比の構造が浮かび上がってきた。
僕はこれに気付き、またも揺さぶられた。だからこうしてここに書いている。
一言で言ってしまうと、それは「金」と「宗教」の対比だ。
この二つはありきたりな、どこにでも使えそうな対比である。
実際僕もそう思う。もしこの文章を第三者視点で読んでいれば、「またか」とつぶやき読むのをやめるだろう。
でも、この二つの対比物が何百、何千のツチ族の命を左右した。
「ルワンダの涙」では、神父クリストファー(白人)の技術学校にたくさんのツチ族が避難してくる。
神父や教師は、そこでさまざまな努力をして彼らを救おうとする。神父はこの状況に愛すら見出す。
しかし、結局ほとんど救えなかった。
一方「ホテルルワンダ」では、支配人(フツ族但し奥さんはツチ族)のホテルにたくさんのツチ族が避難してくる。
彼はフツでありながら、お金と「命の水」と呼ばれるスコッチを使って元軍(?)にホテルを守ってもらう。
彼のおかげでホテルの避難民たちは難民キャンプへと非難することができた。
神父と支配人の差は何?
人種?
国籍?
それとも僕たちがいまだ認識しえない何か?
違う。「カネ」だ。
内容が内容なだけに、こんなことをいうのはかなりはばかられるが、僕にはそうとしか思えない。
(「シンドラーのリスト」もそうだったように感じられたし)
思えば、「カネ」が「宗教」にとって変わっている世界だ。
今のパラダイムでは、宗教がいかに道徳的であっても世界を変えることはできないのかもしれない。
だからって、「カネ」が支配する、すべてが機能主義的に処理されてしまう世界を、僕は嫌悪する。
「宗教」の持つ道徳的側面を生かしながら、「カネ」を使って世界を救う。人々を救済する。
これが、僕の導いた解だ。
曇りの空に、太陽があることに気付いた。そんな経験をしたこの半年に。
p.s.
さっきパラダイムシフトの考えを少し出したけど、
パラダイムシフトって価値観が違う次元に行くことでなく。
昔見えていた世界より、広く見えるようになること。という解釈でいいのかな?
俺の知ってる具体例だと
天動説→地動説は前者で
コロンブスの新大陸発見とか、アインシュタインの相対性理論は(ニュートンの広範囲網羅verという意味で)後者だと思うのだが、、、
わからん(‐‐;)